突然ですが、皆さんクリスチャンとキリシタンの違いをご存じだろうか。
マツコの知らない世界の「隠れキリシタンの世界」という注目せざるを得ないCMを見かけた際に私は思った。
クリスチャンとキリシタンって何が違うの
そして何を隠そう私には妻がいる、地味にクリスチャンなのだ。厳密には妻の母方の家系がクリスチャン家系なのだ。
クリスチャンだからといって我々の日常に差があるわけではない。小さいことは週末に教会に行くこともあったそうだが、そんな文化はなくなったらしく。正月に集まったら妙にワインが多いことと、お盆ではなく5月に墓参りに行き、掃除する墓がちょっと西洋風なくらいだ。
クリスチャンとキリシタンの違いを報告する前に墓参りの話がしたい、聞いてほしい。
私が妻と入籍した後、最初の5月(2018年頃)に母方の親族で集まり、町田の山奥のお墓参りをすることになった。私の紹介も兼ねているようだった。
義母は4人兄弟で3人が結婚しており子供もいた、つまり結構大所帯だったのだ。
最初に誰が誰だか楽しく紹介してくれた、失礼のないように覚える必要があると感じたが、初めましての人物10人近くを正確に把握することは私にはできなかった。そしてそのほとんどが女性だった。女性の多い家系らしい。
最寄り駅で集合したが○○家のお墓は山の上だった。道中で話して顔と名前を覚えればいい、私はそう判断した。
何十年も連れ添った親族グループに突如現れた28歳の男性が簡単に溶け込む余地は無かったように思う。女性たちの巧みなトークの後ろで、数少ない男性陣はニコニコしていて言葉を発しない。私も言葉を発することなくニコニコしていた。
優しいことに女性陣は時々話かけてくれた。私はハキハキと質問に簡潔に答えた。私の中では”爽やかに・ハッキリと・簡潔に”回答することが親族に加わる20代後半男性の理想だと考えていた。
「はい!サッカーをやっていました!」
「今は電気メーカでネットワークの仕事をしています!」
「出身は神戸です!」
我ながら発展途上の人工知能のような生き物だったと思う。質問はコミュニケーションであり求めているのは回答ではなく、世間話だ。だが「運動部だったんですよ~なにやってたかわかります?笑」とチャレンジする気にはならなかった。
相手に話しかけたことを後悔されるなら、人工知能としての扱われる方がましだと判断した。前日は気合を入れていた私だったが、当日には30手前になっても人との話し方がわからない、学習機能が停止したポンコツAIに成り果てていた。
お墓のある施設に到着した。誰かと話したいが誰とも話せなかった私には、表現しがたいフラストレーションがたまっていた。
5月とはいえ、歩けば暑く、お墓の施設についた私たちは休憩を取ることになった。お墓は遥か坂の上だったのだ。私は我先に休憩できる建物に向かい、中に入った。そこには施設のおじいさんがいた。私は誰かと話したい欲求を、なぜか施設のおじいさんに向けていて、話しかけていた。
私「いやー暑いですね、この時期は結構人がくるんですか?」
施設のおじいさん「私も5月しかこないから他の時期がどうなっているかわからないよ」
叔父だった。施設の中にいるのは施設のおじいさん、最初に建物に入ったのは自分という思い込みが起因した痛恨のミスだった。
思い返せば叔父に対して放った言葉としても問題は無かったが、何しろ施設職員が5月しか勤務しないと言い出した事、この人物が施設職員じゃない事、この人物が親族である事実に私は完全にフリーズした。
私「そうでした、そうでした、5月しかこないですもんね」
年1でしか墓参りに来ない親族をディスっている若造がそこにはいた。
お墓に到着して親族の長女の旦那さん、要するにリーダー的な優しいおじいさんがお墓を掃除しようといった。さらにはお墓の周りを埋めている白い石まできれいにしようと言い出した。
石まで洗うのかとは思ったが私の脳内CPUは好機だと判断した。何しろこれを墓から少し離れた水場で洗う単純作業は誰とも会話する必要がなく、若手が泥臭い仕事をするのが鉄則だったからだ。
私は地面から少し蛇口が出ているだけの水場でひたすら石を洗っていた。
自慢の旦那が、親族とコミュニケーションをとることを放棄し、墓場の隅っこで必死に石を洗うガタイの良い小豆洗いと化した姿を見て、妻はさぞ幻滅したことだろう。私は自分の身を守ることでいっぱいだった。
墓の掃除が終わった後、親族の立ち話が終わるのをただ立って待っていた。死後霊体となり、知らない家族の墓参りを見ている気分だった。
以上が人工知能となり、妖怪になり、最後は霊体となった私のクリスチャン墓参り体験談だ。
話を戻そう。
過去の経験からクリスチャンの生態を知った私だったが、キリシタンについてはよく知らなかったので妻に聞いてみた。
私「クリスチャンはわかるんだけど、キリシタンってどういうのかわかる?」
妻「あ~踏み絵とかする人でしょ?」
真面目で聡明な妻だがところどころ抜けているところがある。
まず、踏み絵とは江戸幕府がキリスト教を固く禁じている中、信心深いキリスト教徒をあぶりだすために主たるイエス・キリストの絵を踏ませる、踏まなかった者はキリスト教徒として逮捕・処罰された非人道的行為である。断じて
「お~っし、今日の農作業も終わったし、家で踏み絵しよ!!」
というテンションで行われるものではない。
なんだ”踏み絵とかする人”って歴史的背景を踏まえた表現をしてほしい。彼らは自発的に踏み絵を行っていたわけではない、血の涙を流している中”させられて”いたのだ。
なんだ「踏み絵”とか”する人」って踏み絵以外のことも確実にやっているじゃないか。
妻もキリシタンについてよく知らないようだった。
Googleで「クリスチャン キリシタン 違い」で検索したところ、「解決!2つの違い」というサイトが回答してくれていた。以下は原文そのままだ。
クリスチャンとはキリストの使徒のことを指し、キリスト教を信仰するキリスト教信者のことである。‘香油を注がれ神聖となった者’という意味のギリシア語「クリストス」が語源となり、英語「クリスチャン(Christian)」になったとされる。明確な決まりはないが、現在、日本ではキリスト教信者のことを一般的に「クリスチャン」と呼ぶ傾向が多い。
一方、キリシタンはキリスト教を信仰するキリスト教信者のことを指す点は同じであるが、歴史的経緯から日本でのみ使われた言葉であり、現在は一般的に「キリシタン」を使うことはない。
思わず「これ伏字にしなくていいのか」と誤認したものだ。‘香油を注がれ神聖となった者’は「クリストス」というらしい。
クリスチャン、クリスマス、クリストスの”クリ”はキリストのChriが語源となっており、”クリの部分が”神聖であることを示しているのは確定的に明らかだった。
つまり「クリ〇〇ス」は‘〇〇を注がれ神聖となった者’ということになる。いったい何を注がれたというのか。
神聖であることだけは同意した。
何の話ですかこれは
終わり。